2008年1月25日金曜日

いい加減も味

母のはなしをひとつ。

母は私が幼少の頃より家業の寿司割烹店の割烹部を担当していた。母は昔かたぎの働き者で、育児の傍ら毎日父が営む寿司店で、てんぷらを揚げたり、数々の焼き物を焼いたり、炊き合わせを作ったりし、兄と私を育てた必殺料理人主婦だ。私が生まれた頃は店も景気がよく今のように回転寿司などなかったため、一週間に一度の定休日を除いて毎日のように忙しく働き、休みの日ともなると趣味のテニスや油絵にでかけていた。

なぜ料理ブログに母のことを書きたくなるかというと、料理人の母の背中を見て育った私は母から学ぶことが非常に多く、おそらく一般のサラリーマンの家庭に生まれていたら和食を食べることはあっても自分から関心を持って作ることは稀だっただろうと思うから、そして和食に対して郷愁を感じる情緒をくれた母親にとても感謝しているからだとおもう。先日友人と一緒に食事に行った際、TVで栗原はるみさんが言っていたひとことを思い出し、私はそのトピックを持ち出した。

今の若い人はすごくおいしいパスタを作るのが本当に上手。でも上手に切干大根が作れないとかあるじゃない?

確かこんなことを言っていたとおもう。確かに確かに!そうなんですよね。とTVの前でおもわず相槌をうってしまった。そういえば余談だけど、最近和を売りにする定食屋が矢継ぎ早にオープンしているわりに、おばんさいの美味しい店はめったにない。焼き魚はどこどこで採れた何がしなんかで、炭火焼やウォーターオーブンで焼いてるとかで、そこそこおいしいのに、付け合せの切干大根やひじき、煮物など食べるとがっかりした経験がある人も少なくないはず。やっぱりこれはね、愛情に欠けるからなのかもしれません。だって食べる人の顔を見ながら調理しているわけじゃないからです。家庭料理はやはり家で作るからこそ家庭料理だからなんです。

話はぐぐっとそれたけれど、かくいう私の友人もそのトピックにたいしては「切干大根てうちにあるんだけど、どうやって作るの?」とあんぐり顔でたずねてきた。

切干大根を作れない彼女を責めるわけじゃないけれど、実際の話、上でも書いたように一般のサラリーマン家庭に育った彼女のようなお嬢さんたちには、きりぼしだいこんって?てな人も多いかもなあと思った。でもこればっかりは仕方がないんです。だってそういうおばんさいの傍らで育った人もそうでない人もいるわけだしね。でもやっぱり和食を食べるからにはおいしく食べたい。そう思うのです。

それでこの話がタイトルとどうつながるかというと・・・・ 確かに和食はおいしく作れるに越したことはありません。けど、誰もが一流の割烹料理屋さんのように凝ったものを作る必要はないと思う。普通においしいひじきが作れれば、美味しい煮豆が煮えれば、切干大根が作れればそれでいいというか、それがいいんです。

先日うちの母が料理を作っている傍で私が見ていると、煮物を作っている母が里芋とか大根なんかを違う煮物を作るのに一緒に茹でているのを目撃した。やだあ!いい加減だなあーと私がいうと、「あらなんで?いいじゃないの。だって下茹でするだけじゃない。」というのを聞いてぽかーんとした。・・・ま、確かに・・・そうなんだよな・・・家庭料理の醍醐味・・か。

一見いい加減そうだけど、うちの母親の料理は実に美味。どんなに私が頑張っても母親の作った芋の煮っ転がしや炊き合わせには勝てない。厨房で毎日割烹料理を作る、でもテニスや油絵は辞めたくない。そんななんでも片手間な母だけどそれが人生だし、料理って人生にも似ている。

料理は母のように年季が入ってくると、いい加減がおりなす独特のハーモニーが生まれてくることによって本当のおいしさが生まれてくるのだ。そして母はそれを知っている。それは、カップイッパイとかケイリョウスプーンオオサジイッパイとかではない。匙加減という言葉がある。ウェブ辞書で調べると(1)薬の調合の加減。(2)医者の治療のしかた。(3)料理の味つけの具合。(4)手加減すること。配慮。手ごころ。「事の成否は彼の―一つで決まる」とある。この(4)の配慮、手ごころというところに注目。要は食べる人の顔を思い浮かべながら作った料理は配慮や手心なのだ。

いい加減は決して雑なのではなく、温かみとか手作りの良さと理解したい。調味料の量ではなく、それこそが匙加減なのかもしれない。定食屋の料理もいいけれど、家で常備食を美味しく作ってちょびちょび食べ合わせる良さがわかる日本人でありたいなと思う今日この頃です。






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